ハルカはさきほどいた部屋から廊下へと足を踏み出した。遠くにある非常灯のあかりが、ただ一点だけあるかのようにぽつんと光り、それ以外の光はぼんやりと窓から入ってくる月明かりしかなかった。こころもとないその光をたどりながら、自分の部屋に向かう。 これだけ暗いにもかかわらず、照明がほとんどついていないというのもおかしなことだった。人の生活をよくするために作られたこの施設が、その研究を維持するために、人の生活の質を落としているのは皮肉のような気がしてならなかった。 いままで照明をつけっぱなしだった廊下は、今はしんと静まり、遠くで大太鼓のような音が低く、鳴り響いているだけだった。 「まったく、研究してるのはあんたたちだけじゃないつーの」 汚い自分が出てきてしまった。こころのなかで思っていたことがつい、口をついて出てしまった。こんなにも長い間、この施設にいることもなかなかないことだった。元はといえば、気分転換になるだろうとおもって、やってきたのが運の尽きだったのだ。 帰る手段がちょっとした間、つかえないからって、早く帰りたいなどとわめくわけではないが、正直にいえば、あそこが懐かしい。つかつかと軽く俯きながら歩いているとはっとした。横を見ると、自分の部屋を通り過ぎようとした。 なにをやってるんだか。自分に悪態をついて、首にぶら下げた自動認証用の板に手を伸ばすと、それをドアの横にある端末に近づけ、鍵をあけ、暗証番号をうちこんだ。全自動が売りの、このドアも、このところのエネルギー不足で、あとは人の力で開けてやらなければいけない。 軽い材質で作られているとはいえ、自分の背丈より大きい金属の板を横にずらすのは、非力なハルカにはなかなかの重労働だった。 手に持ったレポートの束を床に置き、くぅ、とちいさく息をもらしながら、自分が通れるぐらいまでにこじ開けた。壁に手をつき、息を整える。うっすらと額には汗がにじんでいた。ゆっくりと勢いをつけてたちあがると部屋に入った。 資料をテーブルの上におき、そのまま洗面所へ向かい、そこの戸棚から消毒殺菌されたタオルを取り出し、汗をぬぐう。
これじゃ、ちょっとまずいかなとおもいつつ、テーブルに置いた資料をまとめて、ベッドの横の机にぱさっとおくと、なにもかも隅に追いやって ベッドに飛び込んだ。うつぶせになって顔に手を当て、目の前にあるちいさな窓から外を見た。そこからは白磁のような月が見えた。昔の人が月の模様を見て、若い女性の横顔だとか、ウサギだとかいったのはあながち間違いではないよう気がした。 黒く深い海の上にぽつんと佇む神殿。清らかで、けがれのなどないのだけれど、魔性のようなもの。深く接しなければ内面をみることはできず、そして、触れることのできないもの。どれだけ近くに見えていても、それは偽物の姿。なんだか、ロマンチックだなと思いながら、月の観察を続ける。 数分後。顔を支える手が、どうやら限界を迎えたらしい。腰が痛い。ずっと見ていたかったが、体が悲鳴を上げた。
「やっぱ、髪が長いと不便だな。 もう。 ばっさりと切ればよかった」
そのことに疑問を覚えたが、そのかけてきた相手を見て納得した。相手をかけてきた相手は、同僚のゲオルク=フォン=ホーエンハイム。ウィザードとかよばれている面白い人だ。年齢も近いことがあってなかなか親しくさせてもらっている。 受信ボタンを押した。次の瞬間机の横にある液晶画面に彼が映った。
「めずらしく、髪縛ってないんだな。うんで、そっちのほうはどうよ?」 彼女いたの。この人。うわぁ。なんだかムッとした。いったい人を何だと思ってるのよ。この男は。
「おそらく言わなくても、察しがつくと思うんだが」
ゲオルクは笑い終わるとこちらを向いてにやりと笑った。そして自信たっぷりに言い放った。
「いや、ちょっとPCの腕の立つ奴がなんか俺の追跡、妨害してるみたいなんだよね。 まったくつかめない。 そのどこぞやの野郎はもしかしたら、データを残したサーバー全てを、物理的にぶち壊してるんじゃないかと思うほど、完璧な仕事だ」
|