Q.E.D. 4

 ハルカはさきほどいた部屋から廊下へと足を踏み出した。遠くにある非常灯のあかりが、ただ一点だけあるかのようにぽつんと光り、それ以外の光はぼんやりと窓から入ってくる月明かりしかなかった。こころもとないその光をたどりながら、自分の部屋に向かう。

 これだけ暗いにもかかわらず、照明がほとんどついていないというのもおかしなことだった。人の生活をよくするために作られたこの施設が、その研究を維持するために、人の生活の質を落としているのは皮肉のような気がしてならなかった。

 いままで照明をつけっぱなしだった廊下は、今はしんと静まり、遠くで大太鼓のような音が低く、鳴り響いているだけだった。

 「まったく、研究してるのはあんたたちだけじゃないつーの」 汚い自分が出てきてしまった。こころのなかで思っていたことがつい、口をついて出てしまった。こんなにも長い間、この施設にいることもなかなかないことだった。元はといえば、気分転換になるだろうとおもって、やってきたのが運の尽きだったのだ。

 帰る手段がちょっとした間、つかえないからって、早く帰りたいなどとわめくわけではないが、正直にいえば、あそこが懐かしい。つかつかと軽く俯きながら歩いているとはっとした。横を見ると、自分の部屋を通り過ぎようとした。

 なにをやってるんだか。自分に悪態をついて、首にぶら下げた自動認証用の板に手を伸ばすと、それをドアの横にある端末に近づけ、鍵をあけ、暗証番号をうちこんだ。全自動が売りの、このドアも、このところのエネルギー不足で、あとは人の力で開けてやらなければいけない。

 軽い材質で作られているとはいえ、自分の背丈より大きい金属の板を横にずらすのは、非力なハルカにはなかなかの重労働だった。 手に持ったレポートの束を床に置き、くぅ、とちいさく息をもらしながら、自分が通れるぐらいまでにこじ開けた。壁に手をつき、息を整える。うっすらと額には汗がにじんでいた。ゆっくりと勢いをつけてたちあがると部屋に入った。

 資料をテーブルの上におき、そのまま洗面所へ向かい、そこの戸棚から消毒殺菌されたタオルを取り出し、汗をぬぐう。
「なんだか、私のところのドアだけが重いような気がするわ。 まったく、油とかさしてないの?」 後で、整備部門に文句をいれてやろうと思った。
 一通り、拭き終わると、床にタオルをおいて、たたみなおし、洗濯物入れにいれた。一日中着ていて、着崩れてしまった薄い青色の白衣もたたんで、洗濯物の上に重ねた。なんだか、一日の仕事を全てこなし終えた気がしたが、実はほとんど何もやっていないことに気がつく。

 これじゃ、ちょっとまずいかなとおもいつつ、テーブルに置いた資料をまとめて、ベッドの横の机にぱさっとおくと、なにもかも隅に追いやって ベッドに飛び込んだ。うつぶせになって顔に手を当て、目の前にあるちいさな窓から外を見た。そこからは白磁のような月が見えた。昔の人が月の模様を見て、若い女性の横顔だとか、ウサギだとかいったのはあながち間違いではないよう気がした。

 黒く深い海の上にぽつんと佇む神殿。清らかで、けがれのなどないのだけれど、魔性のようなもの。深く接しなければ内面をみることはできず、そして、触れることのできないもの。どれだけ近くに見えていても、それは偽物の姿。なんだか、ロマンチックだなと思いながら、月の観察を続ける。

 数分後。顔を支える手が、どうやら限界を迎えたらしい。腰が痛い。ずっと見ていたかったが、体が悲鳴を上げた。
「あ、痛っ。 う、腰が痛い」 ベッドから起き上がると腰に手を当ててのっそりと立ち上がった。 ストレッチまがいにぶんぶんと頭をふると、括ったままだった長い髪が顔に当たる。

 「やっぱ、髪が長いと不便だな。 もう。 ばっさりと切ればよかった」
 頭の後ろに手を伸ばし、髪を二つに分けていたゴムを髪の毛を抜かないようにはずす。髪をとめて、引っ張っていた頭の後ろのほうが、じわりと痛んだ。ゴムを机に置こうとしたとき、机の上の内線がなった。このところのエネルギー不足で、そこらかしこの通信施設が使えなくなって内線などなるはずがないのに、けたたましく呼び出し音が鳴った。

 そのことに疑問を覚えたが、そのかけてきた相手を見て納得した。相手をかけてきた相手は、同僚のゲオルク=フォン=ホーエンハイム。ウィザードとかよばれている面白い人だ。年齢も近いことがあってなかなか親しくさせてもらっている。

 受信ボタンを押した。次の瞬間机の横にある液晶画面に彼が映った。
「よっ」
ゲオルクが好青年の顔をけたけたと笑わせながら周りにある書類の棚に当たらないように手を振った。こちらも挨拶代わりに笑みを浮かべながら振りかえす。

「めずらしく、髪縛ってないんだな。うんで、そっちのほうはどうよ?」
「どうもこうも、全然ダメね。エネルギー不足で何もできないわ。 そっちへ、いけそうにもない」
「やっぱそうだよな。こっちから管理者権限でそっちのほうの回線にただりつくのに、3時間かかったぜ」
「あちこちで、省エネモードっつうわけで、通信施設がつかえなくなってるんだな、これが」
 また、けたけたと笑う。そうすると、周りの研究員達が、ホーエンハイムさんうるさいですよ、とか、なんですか、彼女ですか、などという声と共に野次馬がたかってきた。なんだかいろいろな内容の言葉があちらのほうで飛び交っているのが聞こえる。
 ゲオルクは後ろを向いて、ばかが。相手は流川遙だ。彼女なわけないだろうがっといった内容の言葉を無遠慮に吐いていた。それに彼女はどっかの南の島でバカンス中だといった言葉も声高に発していた。

 彼女いたの。この人。うわぁ。なんだかムッとした。いったい人を何だと思ってるのよ。この男は。
 ゲオルクはなにか早口にしゃべった後、再びこちら側を向いた。
「いや、すまない。 うんで、こっち側でいろいろ調べたんだが」
手元のうすーいラップトップのパソコンを開くと、ピアノでも弾いているかのような激しい音をたてて、キーを打ち込み、よし、あったと満足そうにしゃべりはじめた。

「おそらく言わなくても、察しがつくと思うんだが」
 大体の察しは確かについていた。だが、人を根拠ナシに上げるのは性にあわないので、だまっていた。
「やっぱり、あのチェレンコじーだな。 こりゃ。 事前申請なしに加速器四本、同時につかってるぜ。 じーのおかげで核融合炉7基分のエネルギーが加速器に流れ込んでる」
 それで、こっちのほうには電力が回ってきていないのか。やっぱり。
 「なまじ、管理人特権もってるからな。 他の研究機関への根回しなんてなしに、やりはじめたんだろう」
 大きく頭に手を当ててけたけたと笑い始めた。
ゲオルクからもたらされた情報は、予想していたものと同じだった。あの性格ならやりかねない。おもいついたら、即実行。それがチェレンコフのやり方だったから。
実はといえば、こっちの方はどうでも良かった。求めている情報は他にあった。
 「それより」
 「誰か判る? 独立宣言なんて出したのは」

 ゲオルクは笑い終わるとこちらを向いてにやりと笑った。そして自信たっぷりに言い放った。
 「それがな、わからないんだよ」
 会話をしているにもかかわらず、左右の二台のノートPCと四つのキーボードを左右片手一本ずつで操っていた。傍から見れば、めちゃくちゃなように操作しているゲオルクは余裕を見せながら、ちらりちらりと横目をパソコンの画面に目をやる。その一瞬だけみせた横顔はまるで猛り狂った虎のようだ。

 「いや、ちょっとPCの腕の立つ奴がなんか俺の追跡、妨害してるみたいなんだよね。 まったくつかめない。 そのどこぞやの野郎はもしかしたら、データを残したサーバー全てを、物理的にぶち壊してるんじゃないかと思うほど、完璧な仕事だ」
 ゲオルクはけたっと一回だけ笑った。そして彼の表情がすこし、ほんの少し怖くなった。ハルカは一瞬のけぞってしまった。そこに一瞬悪魔をみた。
 「――だが、俺には勝てない。 なんとしても、見つけ出す。 じゃないと俺の立場が危うい」 また、顔を崩し、いつもの顔に戻ると、
けたっとまた笑った。

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続き。
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